レコーディングした音源を
整えてもらったものを聴きました。
最初は、音やテンポのズレなど
技術的なことばかりが気になり、
どうしよう、これでいいのかな?
やり直しかな?
という思いで悩みました…。
しかし、私の思いの中にエルサレムの街中を
十字架を背負いながら、倒れてもまた起き上がり
ゴルゴダへ向かうイエス様のお姿が現れました。
これは何の意味だろう?
としばらく神様に祈っていました。
イエス様は全ての人の罪を負い、十字架につくという
ご自身の使命を全うされる中で、
茨の冠をかぶらされ、刺のついた鞭を打たれ、
十字架を背負い歩まれた。
伝承によって三度倒れられたと伝えられていて、
エルサレムのヴィア・ドロローサ(苦難の道)には
その場所はモニュメントになって記されているという。
イエス様は一瞬たりとも悪魔に屈したことはありませんが、
当時、イエス様を十字架につけることを賛成した人々は、
目に見えることだけで、
「救い主ならもっとしっかりしろ!!なんてざまだ!」
とあざけり笑ったかもしれません。
しかし、イエスキリストは圧倒的な勝利者であり、
御国の王であり、私達の救い主として
その使命を全うして下さいました。
十字架上で語られたイエス様の御言葉の全てが
圧倒的に闇に打ち勝たれた勝利者の言葉でありました。
父なる神様はイエス様に
「もっと格好良く倒れることなく完璧に歩む為に
もう一度やり直しなさい。」
などとは決して決して言われない。
そのことを思いめぐらしていると、
これでいいんだ。
この賛美は人に聴かせる単なるお歌として歌ったのではない。
これは子供達の、ピアニストの、また祈りつつ側で
見守っていた私の信仰告白だ!
ナレーションの一言一言、賛美の一言一言が
心を込めて神様に捧げた礼拝であり、
信仰の告白であり、
神様はそれで良しとされて
すでに受け取ってくださっていると
はっきり分ったのです。
ピアノと子供達の声だけという賛美、
何も隠すこともごまかすこともできない。
神様に受け取られている確信を持って
再び賛美を聴いてみた。
確かに大丈夫、これでいい!
一切の不平不満、否定的な思いを抱くことなく
捧げられた一人一人の神様への愛の告白であり、
感謝の思いからの心からの賛美でした。
次の朝、再び神様に祈りました。
「神様、今回の賛美どうですか?
神様、あなたのお気持ちを教えてください。
みことばを下さい。」
すると、新約聖書第7番目の章の13節を示されました。
開いてみると第一コリント13章13節でした。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。
その中で1番すぐれているのは愛です。
神様は私の心にはっきりと語って下さいました。
「あなたがたが愛と信仰を持って捧げたこの賛美を、
私は永遠に喜んでいるよ。」と。
ずっと祈っていて下さった方々、
色々な形で力を貸して下さり、
ご協力して下さった方々に心から感謝しております。
神様の豊かな祝福が益々ありますように!
栄光在天!